『サラリーマンと呼ばないで』  毎日新聞 2004・9・7〜11 東京朝刊記事より

30年後の名刺/1 「自分」を貫いて

 ◇「ずっとこのまんまなの?」

 会社のマークが入った名刺。サラリーマンなら当たり前のように持ち歩くものだ。しかし、大阪市の住友電気工業情報システム部で働く西村かつみさん(56)が、あこがれの自分の名刺を手にしたのは、入社してから30年後のことだった。社内では今でも、名刺を持っている女性社員は少ない。

 66年、高校を卒業し入社した。「オフィスレディー」という言葉がもてはやされた時代。67年には国内の女性雇用者が1000万人を突破した。それでも全雇用者数に占める女性の割合は3割程度。入社の年には、住友セメントの女性社員が結婚退職制で解雇されたことに、東京地裁が違憲の判決を下したことがニュースになった。

 西村さんもまた、結婚しても働き続けたいと願う女性の一人だった。幼いころから父親は病弱で、生活は苦しかった。「働いて早く親に楽をさせてあげたい」。そんな思いもあったが、何より働くことが好きだった。

 しかし、入社直後から「男社会」という現実にぶつかった。入社式は男女別々。新入社員研修も男性社員は名刺の出し方などを教わったが、女性社員は電話の取り方や、お茶の出し方ばかり。最初は仕事に慣れるのに必死だったが、会社に慣れるに従い違和感が増す。配属先では、何をするにも男性社員の指示を仰ぐように言われた。「常に男性を中心として、女性は衛星のように男の周りで仕事をするしかなかった。自分が女だと痛感させられた」

 75年に結婚したが、会社はやめなかった。仕事も最初は面白かったが、コピー取りやアルバイトでもできるような簡単な内容が、いつまでたっても大して変わらない。「私はずっとこのまんまなの?」。疑問とあせりが募った。

 入社から20年たった86年に男女雇用機会均等法が施行された。しかし、現実は「均等」とかけ離れていた。同期入社の男性社員は次々と昇格していく。働くのが好きなだけに、不満が積み重なった。「もっと仕事をさせてほしい」。意を決して上司らに何度も訴えたが、かなわなかった。

 そんな西村さんが、後輩女性と共に、会社と国を相手に、男女の賃金差別解消などを求め大阪地裁に提訴したのは、入社して29年たった、夏だった。【大道寺峰子】=つづく

30年後の名刺/2 「自分」を貫いて

 ◇「生きたいように生きる方が」

 「結婚後も働きたい」。住友電工の西村かつみさん(56)は入社10年目の75年に結婚する際、サラリーマンの婚約者に相談した。「女性もそうあるべきだ」と婚約者もわかってくれた。会社でも「生活が大変やし、結婚後も仕事は続けたい」と上司に伝えた。結婚後も働き続ける女性社員は数えるほどだった時代。だから「自分は違う」とアピールしたかった。

 結婚直後、現在の情報システム部に異動した。コンピューターでのプログラム開発など、初めて知る仕事だったが充実していた。「もっと勉強したい」。意欲がわいた。同時に、幸せな家庭も夢見た。「早く子どもを産んで、それからじっくり仕事に取り組もう」。77年に長女、80年に二女を出産したが、当時法律で認められていた産前産後6週間ずつを休んだだけだった。同居する実母も協力してくれた。

 しかし、出産の前と後では仕事の内容が変わった。産休を取る前、西村さんは、経理システムの複雑なプログラムを組み立てる作業チームの一人だった。産休後はそれが、1人でもできる簡単な作業になった。上司に理由を聞いたが納得できる説明はない。昇格も同期との間に差がついた。「産休を取ったり、子どもがいると人事評価が低くなるのでは」と上司。悔しかった。

 逆風は家庭でも吹き始めた。母や妻としての役割の一方、会社員としての付き合いや、勉強の時間なども大切にしたかった。でも仕事を理解してくれていたはずの夫は、家族と一緒に過ごす時間をより多く求めた。考えがすれ違い、次第に言い争いが増えた。

 頭に浮かぶ「離婚」の2文字。でも、子どものことや経済的な問題を思うと決断できない。そんなある日、離婚をしたある女性と話をした。その女性と子どもには、自分の家庭と違う安らぎがあった。

 「生きたいように生きる方がプラスになる」。84年に離婚した。36歳だった。=つづく

30年後の名刺/3 「自分」を貫いて

 ◇「つらいのは私だけじゃない」

 二女を出産した80年ごろから、住友電工の西村かつみさん(56)は、会社で声を上げることにした。「もっと専門的な仕事をさせてほしい」

 しかし、状況は悪くなる一方だった。それまで西村さんが行っていた関連会社への出張も、男性社員が代わるようになった。後輩の男性社員が次々に昇格し、自分の上司になる。「何でこんなに男性中心なん?」。子どものためにも仕事は辞められない。不満のやり場もなかった。

 会社での立場を変えるきっかけになればと、90年ごろからは女性弁護士らが主催する男女雇用機会均等法の勉強会に参加した。そして自分と同じ環境の女性たちを知った。「つらい思いをしているのは、私だけじゃないんだ」。励まされた。

 「大事なお嬢さんを結婚するまでお預かりする。だから日帰り出張でも見知らぬ所へは行かせなかった」。これは、西村さんが後に起こした裁判での会社の元人事幹部の証言だが、多くの会社が働く女性を一人前に見ていないことは、勉強会で痛感していた。

 91年、西村さんは、働く女性と情報を共有するネットワーク組織をつくった。92年には、住友生命の既婚女性が全国初の「ミセス差別」救済を求める調停を、労働省大阪婦人少年室(当時)に申し立てた。調停は門前払いだったが、強い刺激を受けた出来事だった。「私も何かしたい」。そんな気持ちが溢(あふ)れた。

 ちょうどそのころ国連の「女性差別撤廃委員会」(CEDAW)が、日本政府の取り組みを審査する際、NGO(非政府組織)などの意見も参考にすると聞いた。「国は会社の味方だろうが、国連ならわかってくれるかも」。すがる思いで、仲間と資料をかき集め、半年かけて英訳付きのリポートをまとめた。

 94年1月、期待と不安を胸にニューヨークの国連本部に乗り込んだ。「取り上げてもらえるだろうか」。NGOの意見を聞く場でCEDAW委員は、西村さんらの訴えに真剣に耳を傾けてくれた。=つづく

30年後の名刺/4 「自分」を貫いて

 ◇「差別を訴え続けなければ」

 「あなたたちが頑張ることが、ほかの女性を励ますことになります」。94年1月に国連の女性差別撤廃委員会で出会ったインド人女性の言葉を、住友電工の西村かつみさん(56)は忘れない。

 インドでは多くの女性が差別によって命まで落としていた。「あなたたちに比べれば、自分たちへの差別はささいなことかも」。でも、インド人女性は「同じ人権の問題です」と答えた。

 目からウロコが落ちた。西村さんは、学歴差別や障害者差別なども存在するなかで、女性問題を声高に叫ぶことにためらいを感じることもあった。しかし、国連で世界中に女性差別が存在することを知った。「これまで声に出せずにいた思いが一気に解き放たれた」。そして、西村さんは決意した。「一生かかっても女性差別を訴え続けなければ」

 帰国後の3月、西村さんは同僚らと労働省大阪婦人少年室(当時)へ男女雇用機会均等法に基づき、昇格や賃金の格差是正を求めて調停を申請。門前払いの形になったため、翌95年8月、国と会社に差額賃金や慰謝料などを求め大阪地裁に提訴した。見えにくい男女差別の実態を分かってもらうには賃金差を示すしかなかった。この年、中国・北京で世界女性会議が開かれたことも、励みだった。

 この裁判で、国は「男女雇用機会均等法はすべての差別を禁止しているわけではない」と主張した。「国の本音が出ているな」と思った。そして、00年7月、判決を迎えた。地裁は、高卒女子を幹部候補社員から排除したのは憲法14条(法の下の平等)の趣旨に反するとしたが、採用された当時の社会状況では「違法とまではいえない」として請求を棄却した。「均等法以前に採用された女性は一生、平等に扱われないのでしょうか」。同じ原告だった後輩も涙を流した。

 すぐに大阪高裁に控訴した。1審の判決がその後も、同種の裁判で何度も企業側に引用されることは、悔しかった。それだけに、2審の判決にこだわっていた。=つづく

30年後の名刺/5止 「自分」を貫いて

 ◇「働くことは、生きること」

 「過去の社会意識を前提とする差別の残滓(ざんし)を容認することは社会の進歩に背を向ける結果となる」。こんな大阪高裁の勧告に沿う形で、昨年12月24日、住友電工男女賃金差別訴訟は、原告2人に500万円ずつの解決金を支払うことで和解した。高裁の勧告は、西村かつみさん(56)らの思いをくみ取ってくれた。

 今年1月、西村さんは情報システム部の主席(課長級)になった。同時に女性5人が昇格したこともうれしかった。「差別の是正が目に見えるものになった」。同世代の男性社員も「いい形で裁判が終わったね」と声をかけてくれた。

 「男女格差是正を会社も受け入れなければならない時代になった」。昇格後のあいさつ回りで、そう実感した。名刺は上司の許可がないと持てない雰囲気があり、裁判中も名刺が必要な仕事はほとんどさせてもらえなかった。しかし、これも時代の流れか、96年ごろには当時の上司が「作ってもいいよ」と理解してくれた。初めて名刺を持った当初は渡し方もぎこちなく、30年の出遅れを痛感した。今は少しでも多くの人に名刺を手渡し、仕事をしたいと思う。

 今、西村さんにとって仕事帰りに長女(26)や二女(23)と食事や買い物をするのが、何よりもほっとする時間だ。「母さんはいつも後ろ姿や」と子供に非難されたこともあった。でも、「娘たちも働くようになり、互いに仕事のことを相談し合える良き理解者になりました」。今春結婚した長女も仕事で飛び回っている。

 「私がやってきたことは少しは娘たちの役に立っているのかな」。娘と同世代の人たちが就職難で、なかなか正社員になれない状況に心が痛む。訴訟での和解金は、職場での性差別撤廃に向けた裁判を支援する基金の設立に充てた。派遣やパート社員らの待遇改善も支援していくつもりだ。

 「『働くこと』はイコール『生きること』。仕事はしんどいけど、達成感がいい」。西村さんがほほ笑んだ。【大道寺峰子】=おわり

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 ■ひとこと

 「自分たちの受けてきた男女差別を、次の世代に引き継ぎたくない」。そんな思いが西村さんらに裁判という手段を選ばせたという。

 雇用機会均等法の施行から6年後の92年に入社した私は現在、2児を抱えて働き続けている。西村さんの世代に比べると働きやすくなったとは思うが、女性ゆえの悔しさは決して少なくない。どうすれば誰もが働きやすい社会になるのか。西村さんらの勇気に感謝しつつ、少しでも多くの女性の悔しさを伝えることが私の役目だと思う。